老親介護に悩む30~60代の方へ
老親介護ねっと[老人ホーム編]
トップ 老人ホームの選び方 介護関連ニュース 新規オープンホーム情報 老人ホーム取材レポート お問い合わせ リンク集 Q&A

こんにちはゲストさん。会員登録(無料)して質問・回答してみよう!

締切り済みの質問

百姓地という呼び方はあったのか

江戸周辺や諸藩において代官や郡代が管轄する百姓が住んでいる郊外の農山村は「百姓地」と呼ばれていましたか?江戸市中では武家地、寺社地、町人地などとありますがどうでしょうか?又は他の呼び方でしょうか?

投稿日時 - 2018-05-17 23:17:32

QNo.9499469

すぐに回答ほしいです

このQ&Aは役に立ちましたか?

0人が「このQ&Aが役に立った」と投票しています

回答(8)

ANo.8

No.2.6.7です
追加の御質問がありましたので説明させてください。

>農村の「百姓身分」が「寺請証文」をもって例えば江戸に出て受理されれば「町人身分」になるのでしょうか?
町人身分にはなりません。
江戸時代の身分は職業によって区分されていたものではありませんので、どのような職業に従事しようとも寺に登録された身分が変更されることはありませんでした。
士農工商などというのは慣用語であって正式な身分制度ではありませんのでご注意下さい。
身分を変更できるのは養子、養女、となるかあるいは結婚して身分の異なる人の「家」の一員になる必要がありました。
勘当という処置がありますが、これは「家」の一員ではないとされて寺の帳簿から抹殺する処置です。
抹殺された人は無宿人と呼ばれました。
無宿人となると身分保障がありませんので定住することも旅籠などに宿泊することも出来ませんでした。
放浪を続けることになります。
TVなどの時代劇でヤクザ者が旅人と呼ばれるのはこの為です。
吉原などの公娼の場合は寺に登録された帳簿から抹殺されました。
どこの寺にも登録されていないことから死亡すると埋葬されませんでした。
近くの寺に掘られた穴に放り込まれました。(投げ込み寺)
江戸時代の末期には下級御家人が金銭で御家人の身分を売買するということがありました。

蛇足
百姓と町人という身分は正式には年貢あるいは町入用などの税を納めている人が該当しました。
百姓の場合は年貢は村落単位で課税されていました。
これを庄屋(名主)を頂点とする村落の自治組織である村役人が村落内の誰がどれだけ負担するかを決めていました。
年貢を負担する人は本百姓と呼ばれていました。
年貢を負担する必要がない人は水呑百姓と呼ばれていました。
水呑百姓は蔑称ではなく正式な身分呼称です。
大まかな目安は農地(耕作地の使用権)を持っているか否かです。
村落内で耕作には従事せずに商業に従事する人や職人も水呑に含まれました。
漁村では米で納付する年貢に代わり浦役と呼ばれる課税がありました。
この本百姓だけが自治組織に参加できました。
本百姓以外の人は正式な場では代官などの武家とは話ができませんでした。
町人には百姓に対する年貢に相当するものはありませんでした。
城下町や主要な都市の町人は農村の村役人に相当する自治組織である町役人という組織がありました。
藩幕体制というのは基本的に軍事組織でしたので住民に関するいわゆる民政はこの村役人や町役人に一任していました。
町役人が町政を行う際に必要な経費を賄うために町人から費用を徴収していました。
土地や家屋を所有している人がこれを負担していました。
この町入用を負担している人達だけが村落の本百姓と同じように自治組織に参加できました。
賃貸で長屋などで暮らす人や奉公人などは負担していませんでした。
当時は所得税という考え方がありませんでしたので、現代で言えばこれらの人達は無税だったということです。
それと引き換えに正式な場所では武家とは話ができませんでした。
町奉行所などへ訴え出る際には町内で町入用を負担している人に代弁してもらう必要がありました。
TVの時代劇などで、奉行所のお白洲で冒頭に「大家以下一同揃いたるか」と言うのはこのためです。
奉行が「直答を許す」と言わない限り長屋の住人は発言できませんでした。
超大雑把に言うと、人権などという考え方が無い時代でしたので年貢にせよ何にせよ税を納めていない人は税を納めている人の付属物とみなされ市民権がありませんでした。
江戸時代の町人や百姓を議論する際に極めてややこしいのはこのためです。
何かあれば遠慮なくご質問下さい。

投稿日時 - 2018-05-23 13:02:30

ANo.7

No.2.6です
追加のご質問がありましたので説明させて下さい。

>村から町に出る場合の正式な手続き(今でいう住民票の異動のようなもの)が必要だったんでしょうか?
必用でした。
幕府や大名家の財政は米が基本で年貢として農民から米(玄米)を徴収していました。
この米を生産する農民は大切な財政基盤でした。
過酷な年貢が課せられると農民は逃散という手段を講じました。
土地を捨てて隣国へ逃げ込む手段です。
これを防ぐために戸籍が設けられていて土地を離れる際には許認可が必用でした。
この戸籍の管理は寺院が受け持っていました。
江戸時代の初期にはキリシタンではないことを証明するために寺院が自分の寺の檀徒だということを証明していました(宗門改帳)
これが整備されるとともにキリシタンが激減したこともあり江戸時代の中期以降は現在の戸籍謄本のような役割が残りました。
短期の旅行であれ、江戸への出稼ぎであれ土地を離れる際には寺院が発行する寺請証文(寺請状)が必用でした。
江戸へ出て長屋を借りたり奉公する際にはこの寺請証文(寺請状)を大家や奉公先に提出する必要がありました。
大家や奉公先はこれを区域の同じ宗旨の寺へ持ち込みその寺の宗門人別改帳に記載してもらいました、
短期の旅行の際には道中手形(通行手形)と呼ばれる現在のパスポートのようなものを所持する必要がありました。
武家であれば仕えている藩の役所で発行してもらいました。
町人の場合は町役人、百姓であれば村役人が発行していました。
寺院が代行するところもありました。
この発行を申請するさいに寺請証文(寺請状)が必用でした。

蛇足
江戸時代には本末制度というのが設けられていて寺院は宗派毎に本山から地方の末寺までピラミッド状に統制されていました。
各寺は宗門人別帳を作成管理することが義務付けられていました。
庶民(町人、百姓)は宗門人別帳に記載される必要がありましたので自動的に檀家となりました。
更にこの組織に触頭と呼ばれる寺があり幕府や大名家との窓口の役割を果たしていました。
つまり、幕府や大名は触頭を通じて宗派を統括し、宗派内は本末制度で統括され、宗門人別帳を通じて寺が庶民を統括するという社会制度になっていました。

農民の逃散は逃げ込まれた大名の方は耕作する労働力が増えますのでウエルカムでした。
領内の荒地を開墾する余裕ができますので期せずして財政基盤である石高が増えることになります。
中には奨励金を出す大名もありました。
大名どうしで返せ返さないでゴタゴタやっていました。
詳しくは下記のような書籍があります。
逃げる百姓、追う大名 宮崎克則著 中公新書

何かあれば遠慮なく追加のご質問を下さい。

投稿日時 - 2018-05-22 11:56:38

お礼

なるほどですね。宗門人別帳がそれに当たるのですね。「人別送り状」?というようなものがあったように思いますが、記憶違いでしたね。農村の「百姓身分」が「寺請証文」をもって例えば江戸に出て受理されれば「町人身分」になるのでしょうか?

投稿日時 - 2018-05-22 21:59:02

ANo.6

No.2です
わざわざお礼を記入頂きありがとうございます
お礼に追加の質問がありましたので説明させてください

>武家地→屋敷、町人地→特に呼称なしということなんですね。
特に一般的な呼称はありませんでした。

>各奉行の管轄地としての認識でそれを指す、一般的な呼称はなかったということでしょうか??
町奉行支配場、江戸払御構場所、寺社勧化場、札懸場などという呼称がありました。
各奉行が独自に設定していました。
江戸時代には「所払い」という罰則がありました。
江戸の街が拡大した結果江戸十里四方追放,江戸払などを命じる際に江戸の範囲を明確にする必用が生じました。
文政元年(1818年)に江戸朱引図と呼ばれるものが作成されました。
この際に寺社奉行の管轄であった寺社勧化場を基準とした範囲を朱色の線で囲み、町奉行の支配地の境界を墨で線引きしました。
町奉行の支配地の外側の村落が勘定奉行の下部組織である代官支配地となりました。
ここでややこしいのが村落と旗本との関係です。
大身の旗本であれば自分の領地である村落から年貢を徴収する家臣を抱えていましたが、大半の旗本にはそのような余裕がなく代官に依存していました。
つまり領主は○○家で支配は△△代官という状態でした。
朱引内の代官支配地では商業に携わる町人も職人も農耕に従事する農民も身分上は全て百姓として扱われました。

蛇足
日本の歴史上の土地制度というのは極めてややこしいものでした。
超大雑把にいうと現在の不動産のような私有地というものが存在しませんでした。
支配権や利用権、使用権などの権利があるだけでした。
江戸時代の大名の権利も年貢などの徴税権が認められていただけでした。
徴税権が認められる代償として治安維持などの領国の統治が責務でした。
譜代大名の場合は幕命でたびたび引っ越しさせられていました。
大名が引っ越す場合家臣はついていきましたが領民はそのまま残りました。
領主は当座の者,百姓は末代の者などと言われていました。
この百姓が耕す農耕地も農民個人の持ち物ではなく村落で共有されていました。
この村落で共有されていた利用権は農民の間で分割されていました。
この利用権は原則として売買が禁止されていました。
江戸時代の町人の間にあった沽券というのは現在のような不動産の権利書ではなく利用権の売買契約書でした。

一方江戸時代の身分制度というのは境界が極めて曖昧でした。
武家と百姓の間には郷士という人がいました。
寺院が管理する身分台帳上では百姓であっても大小の刀を差して市中を闊歩することが認められていた人達です
有名な新選組はこの郷士の集団でした。
近藤勇が板橋で処刑された際に切腹ではなく斬首だったのは百姓身分だったためです。
百姓の範囲も広く、農耕だけではなく漁労や営林に携わる人達も身分上は百姓でした。
農漁村に居て商店を経営していた商人も日常生活にに必要な物を作っていた職人も身分上は百姓でした。
このような人達が江戸の街へ出て商家で働いていました。
つまり江戸の街の町人は身分上全員が町人だった訳ではないということです。

以上のような社会制度でしたので江戸時代に武家地、町人地、百姓地などと区分けする意味がなかったということになります。

投稿日時 - 2018-05-19 13:54:12

お礼

御詳しそうなのでもう少し追加でお聞きしたいことが。村から町に出る場合の正式な手続き(今でいう住民票の異動のようなもの)が必要だったんでしょうか?多くは、手続きなしに町に出て行ったと思うんですけど。

投稿日時 - 2018-05-21 21:16:59

ANo.5

No.3です。ほかの江戸時代の「百姓地」の用例をさがしてみました。
『慊堂日暦』
天保三年九月
京師よりの書来り、君夫人の墓誌中の谷中村は新堀村ならんと訂すと。余は書を作って云う、(略)因って寺社由緒書を検すればすなわち云う、宝永六年に本行寺を谷中経王寺尾の百姓地に移すと。因って谷中を以て定となし、答を作ってこれに答う。
天保十二年四月
本月十■日、新地奉行触書大意ニ云ウ、御目見以上以下陪臣寺社町人、百姓地内々譲請、百姓名代ニテ抱屋敷ニイタス夥敷、御場内不取締ニ付、右様ノモノ村役人ヨリ二十日マデ書出可申ノ旨ナリ
天宝十二年九月
十四日、祭酒より呼出書付以御達左之通(御月番大炊頭様)
其方借地住居候下渋谷村羽根沢百姓地、此度公儀御触之趣も有之候間、家作引払可致返地之処、二十年来教授をも仕候儀に付、其訳を以申立置候処、此上三年之内は是迄之通住居致候而も不苦候。

『楽郊紀聞 対馬夜話』
同村柿の下といふ所は、多葉粉(たばこ)の宜き土地也と云。其処は百姓地也。

投稿日時 - 2018-05-19 11:10:09

ANo.4

たぶんご希望の回答ではないのでしょうが、
勘定奉行の管轄地域を武家地
寺社奉行の管轄地域を寺社地
江戸町奉行の管轄地域を町人地と呼ぶわけですから、
それ以外の地域の呼び方となると
大岡様御知行(旗本大岡家の知行地)とか韮山公料(韮山代官が支配する天領)といった表現が対応するものになってしまうかと思います。

投稿日時 - 2018-05-18 22:23:35

お礼

回答ありがとうございます。江戸周辺の農山村がどのように呼ばれていたのかはご存知ないですか?勘定奉行→郡代、代官の支配だとは思うのですが。

投稿日時 - 2018-05-18 23:24:47

ANo.3

日本国語大辞典(小学館)には「江戸時代、都市の市街地に隣接した農地をいう。」とありますから、質問者さまの理解でおおむね合ってるように思います。
ちなみに、辞典には以下のような用例が載っています。

*甲州法度五十五箇条本〔1554〕六条「百姓仰留年貢事、罪科不軽、於百姓地者、任地頭覚悟、可令所務」
*幕末御触書集成‐五四・天保一二年〔1841〕一二月二一日「百姓地借受住居之者、来寅年中迄に返地為仕可申」
*滑稽本・八笑人〔1820~49〕五・上「向島は百姓地(ヒャクシャウチ)だから、些(ちっと)は作物の事も辨(わきま)へざアなるめへとおもってヨ」

投稿日時 - 2018-05-18 17:13:21

お礼

回答ありがとうございます1841年なので明治以前に百姓地の表記があるということは、呼称としてあったのでしょうかね?

投稿日時 - 2018-05-18 23:23:04

ANo.2

武家地、町人地、百姓地などという用語は明治時代に入ってから使われた用語です。
従って江戸時代にはこのような区分呼称はありませんでした。
参考
明治初期の武家地がおかれた状況 混乱する江戸
www.photo-make.jp/hm_2/nazo_daimyoumon_7.html
抜粋
明治元年(1868)8月、郭外の土地建物について、土地は取り上げるが、家作は売るなり、取り壊すなりの判断は自由とした。これらは首都を東京にしたときの布石であり、郭内の土地建物はそのまま壊さずに保存することにした。また、郭内においては、藩すべてに1カ所の屋敷所有を認める、郭外においては、藩の大小にかかわらず2カ所の屋敷所有を認めた。
しかし、同年11月訂正の布告で、郭外の建物は全てを壊すと土地の境界が不明になるため、「石垣、板塀などは壊すことは禁ずる」と修正された。当然に門は板塀と繋がるので残された可能性が高い。
参考
武家地(ぶけち)とは - コトバンク
kotobank.jp/word/武家地-1404866
抜粋
地租改正に先だって,1872年(明治5)いちはやく東京市街地(町地(まちじ),武家地)に地券が交付され,沽券税法の施行をみた。これは,町地(町屋敷,拝領地など種々の土地を含むが,その主要部分は町屋敷),武家地には旧幕時代,さまざまの特典が与えられていたので,それを統一税制下の課税対象に組み込むための措置であり,それを迅速に果たしえたのは,町屋敷には早くから売買・質入れが認められて所有権が成立していたからである。…
参考
都史紀要13 明治初年の武家地処理問題 - 東京都総務局
www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0604t_kiyo13.htm
抜粋
維新政府としては、江戸という巨大都市の再出発ともいうべき、新しい都東京に、町地においては地租という形ではないにしても何等かの形で租税的なものがあるのに、武家地とよばれる地域に一銭の地租税も課せられてないということは、財政難にあえいでいた政府側にとって、がまんの出来ぬことといってよい。そこに財政の上からも武家地というものを一刻も早くなくして、すべて「租税を納める土地」としようとした考えも当然のことといえる.

>江戸市中では武家地、寺社地、町人地などとありますがどうでしょうか?
〇〇地という言い方ではなく統治する役所(勘定奉行、寺社奉行、町奉行)によって区分けされていました。

>又は他の呼び方でしょうか?
武家が居住する土地は一般に屋敷と呼ばれていました。
下級旗本や御家人は現在の公務員宿舎団地のような組屋敷と呼ばれる地域に集団で居住していました。
有名なのがTVの時代劇などに出てくる八丁堀です。
この地域には南北江戸町奉行に勤務する与力や同心が居住していました。
町人が住む地区については特別な呼称はありませんでした。
幕臣の場合は親子代々身分に応じて土地家屋が支給されていました。
人通りの多い通りに面した土地を支給された武家は通りに面して住居を建てて賃貸していました。
原則論からいえば違法行為ですが黙認されていました。

投稿日時 - 2018-05-18 14:22:38

お礼

回答ありがとうございます。武家地→屋敷、町人地→特に呼称なしということなんですね。各奉行の管轄地としての認識でそれを指す、一般的な呼称はなかったということでしょうか??

投稿日時 - 2018-05-18 23:21:47

ANo.1

 江戸は、「武家地」「寺社地」「町地」の3種類に分けられていましたが、これは、誰が統治するかという支配権が違ったせいです。それぞれの権力行使が越権にならないように、厳密に名称をつけて区分けする必要があったからです。

 江戸町奉行が担当したのが「町地」です。江戸の約20%。

 江戸に農民は一人も住んでいなかったかというと、いました。江戸府内は時代によってどんどん拡大されて行って、取り残されたというかなんというか、農民が住んでいる場所も江戸になってしまったので、江戸に農民もいたのはいました。

 朱引き内と呼ばれる江戸内の、その農民も町奉行が支配したので、その農民が住んでいる土地も「町地」です。

 江戸の外(村方)の農民は、法制上は代官が支配したのですが、例えば5人いた関東の代官はふだん江戸内で年貢徴収のことだけやって、村方には徴税作業以外には出向かず、支配その他(捕縛など)は名主などにお任せ一任状態だったとのことなので、思いますに「〇●村」「××村」という名称で区別しただけだったろうと思います。

 諸藩のことについて書いた本を持っていませんが、まあ、代官所と同じ程度(大雑把)だったのではないか、と思います。2万や3万石の大名に、幕府と同じような専門家・責任者を召し抱えるのは無理でしょうから。

投稿日時 - 2018-05-18 01:07:04

お礼

回答ありがとうござます。江戸周辺の農山村は代官支配で、特に「~地」というような呼び方はしていなかったということですね?

投稿日時 - 2018-05-18 23:17:42